月の輪熊

2017-06-16

 最近、山菜採りで(根曲がり竹)熊に襲われる事故が多発しているが、悲惨なニュースを聞くたび30年前の嫌な思い出が蘇ってくる。
 父親が、定年退職を迎えたので労をねぎらうため、岩手県の夏油(げとう)温泉に家族6人で出かけた。夏油温泉は、山岳部の仲間と焼石岳を縦走した後に汗を流す宿だ。
 夏油川に沿って混浴露天風呂が数か所あり、地元の人が自炊をしながら長湯治する歴史ある温泉である。また、気さくに話しかけてくれる味のある岩手弁がたまらない。
 長男が、イワナが釣れるという情報を聞きつけ準備をしていた。宿の主人によると、歩いて2分の沢で天然イワナが簡単に釣れるという。
 私は、黒部の薬師沢、白神山地の赤石川でイワナ釣りや天然マイタケ採りをしているので、釣りの指導と安全管理のため出かけることにした。
 早速、赤トンボを捕まえ羽を半分だけむしり、水面で羽音がするように流すと、直ぐに型の良いイワナが飛びついてきた。が、長男が慌てて合わせてしまい痛恨のバラシ。イワナは、ヤマメと違って一呼吸おいてから合わせないと針掛りしないことを教えると、あっという間に3匹釣り上げた。私に似て感性は良さそうだ。
 イワナ釣りが楽しくなった長男は枝沢ではなく、尺イワナが潜んでいそうな場所へ行きたいと言いだしたので、尺イワナが潜んでいそうな鱒内沢の源流部に向かった。車を停車して急峻な崖のようなところを熊笹につかまりながら慎重に降りる。
私の、背丈以上もある秋田フキをかき分けながら沢に出ると、落ち込みにイワナが群れになって泳いでいた。
 トンボを付けて流したが、全くの無反応。西日の影響と考え、日陰のあるところまで移動したら、長男が、「熊だー」と下流を指さした。
親子の熊が、3頭で沢を横切ろうとしていた。50メートルの距離があるので安心しながら観察していたところ、一回り大きな父親熊と目が合った瞬間、こちらに向かって突進してきた。
 極限になると、脳が危険回避するためスローモーション状態になって見えると聞いていたが、熊がスローモーションで向かってくるのがハッキリ見えた。滑りやすい沢の中を四本足の爪は川底をしっかりつかみ、月の輪が夕日に照らされ黄金色に輝いている。
躍動するたび月の輪は歪み、水しぶきは夕日に照らされクジャクが羽を開いたように美しく見えた。
 次の瞬間、現実に引き戻され・・・
 長男に向かって「逃げろー」と叫びながら振り向いたところ、既に、長男は父を置き去りにして逃げていた。が、滑りやすいサンダルをはいた小学6年生では思うように渓流の中は逃げられない。
息子を守るため、逃げるわけにはいかないので熊と戦うことを選択し、持っていた釣り竿で水面をたたきながら、10メートルに迫った熊を、大声で威嚇して迎え撃つ体制をとった。
前足の爪で叩かれたら頭の皮が剝ける。ガップリに組んだら頭を噛みつかれる等、情報が頭を駆け巡るがまとまらず、姿勢を低くし体当りをしようと覚悟を決めたら、私の脇を通過していった。
 ホッとして、熊を見ると熊は逃げた長男を狙っていた。熊は逃げるものを追う習性がある。熊が、後ろに迫っていることを大声で叫んだが、渓流の水音に消されて届かない。
 一瞬、殺され長男の遺体を抱えながら、夢遊病者のようにさ迷い歩く自分の姿が目に浮かんだ。
「もう、駄目だ」「こんなところに来なけりゃ良かった」「妻になんて言い訳しよう」
かと諦めた瞬間、熊が左岸の緩斜面に向かって駆け上がって行った。何故、なぜ?
なぜ逃げたのか解らないが、助かったようだ。
「良かった」長男が、死んだら一人で帰るわけにはいかない。
 ホッとして長男を見ると、必死で逃げている姿がピノキオのようで面白い。
 長男が振り向いたときは、熊が逃げた後なので直ぐ後ろまで迫ってきたことを知らない。
 父親の威厳を示そうと、釣り針に餌を付けようとしたが手が震えて刺さらない。膝は震えて、水面に幾つもの輪ができていた。下流を見ると、小熊が、沢の中で泣きながら母親熊を呼んでいる。小熊を捕らえようとしたら、近くの藪の中で母親熊が構えていた。
 夢中で、車まで駆け上がりドアを開けた瞬間、天国の扉に感じた。
長男の無事な顔を見た瞬間、嬉しさの余り体の震えが止まらなかった。
 小熊が、親を求める鳴き声が谷底から木霊している。母熊は小熊の傍にまだ行っていないようだ。お互いの子供に怪我がなくてよかった。
 それから一週間後、槍ヶ岳の東鎌尾根に向かって長男と縦走していたら、大天井小屋に「熊に注意」の看板がでていた。
先週も熊?今週も熊か?200メートル下のハイマツ付近に黒い動物が群れをなして動いているのが見えた。熊にしては小ぶりだなと思っていたら、あっという間にサルの群れ30匹に囲まれた。
長男が、「熊の次は、猿だ-」と私の腰にしがみ付いたので、ボス猿に背中を見せたら襲われることを話すと、長男は牙をむき出しながら威嚇しているボス猿を睨み返した。
 一週間前の、熊と比べたら猿の牙は可愛らしく思えた。一週間前に地獄から生還した二人に怖いものはない。
ボス猿の眼を睨みつけながら、微笑む余裕まである。ボス猿も、修羅場を経験した我々の雰囲気を感じたのか、反対側の谷底に群れを引き連れて去って行った。
 長男は、「サルなんて、熊に比べたら問題ないね」と、余裕をみせていたが我が家には熊より怖いものがいることをまだ知らない。

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