静かな尾瀬

2016-04-16

 桜の季節を迎えると、尾瀬沼の水芭蕉を思い出す。
尾瀬には二つの顔がある。華やかで賑わいのある尾瀬と、動物の足跡に生命反応を感じる誰もいない静かな尾瀬である。
 挨拶するのが面倒になるくらい賑やかな尾瀬もよいが、雪で閉ざされ怖いくらい静かな尾瀬もまたよい。私は、「はるかな尾瀬、誰もいない静寂な尾瀬」が好きだ。
 3月の中旬になると雪が落ち着くので、山スキーを車に乗せ山仲間と戸倉温泉に向けて出発する。戸倉から大清水までの道路は冬季閉鎖されるため、冬山装備、スキー用具30キロを負って8キロの車道を2時間かけて歩く。冬季閉鎖された門扉の合鍵があれば10分で着くとボヤキながら。でも、この2時間がフィルターとなって、限られた登山者しか入山できなくなっている。
 大清水からスキーを装着して、雪に埋もれた冬路沢を尾瀬沼めざして登る。
三平峠の手前に、一か所だけ沢水が飲める場所がある。ぽっかり空いた雪穴に、ストックに縛り付けたコップで冷たい沢水をくむ。この一杯の雪解け水に値段を付けるとしたら、10万円の価値があるだろう。「ウメ-」の雄叫びが静かなブナの原生林に木霊する。
 いつもなら、三平峠から広大な尾瀬ヶ原にスキーで滑り込み、尾瀬を独り占めにしながら長蔵小屋の冬季小屋に向かうが、今回は、雪が腐っているのでスキーのシールに雪が張りつき大幅に遅れた。三平峠に差し掛かると日が落ち始めたので、ビバーク(野宿)の準備をする。
 新人は、想定外のビバークを受け入れられずパニック状態になり、リーダー批判を繰り返しているが、経験豊富なリーダーは新人が混乱しているのを楽しんでいるようだ。
山登りも、人生も思ったようにはいかないことをまだ理解していない。
 リーダーは、危機管理の原則として潜在的な危険予知能力を求められ、常に危険側に立った状況判断が必要になる。
新人は、自己希望的観測をしているから即時対応に遅れをとりパニックに陥る。
リーダーは、最悪を想定しながら行動しているのでビバークは想定内である。
男の価値、男の魅力はトラブル対応能力にあると思う。どのような状況でも冷静に余裕をもって判断できる男は、男から見ても魅力的だ。下界の女子は男の本当の優しさの価値観が違うから残念でならない。この新人を、尊敬されるリーダーに育てるのには相当の時間と忍耐が必要だ。
 ツェルトで、(簡易テント)膝を抱えながら一夜を明かそうとしたら、新人は、夜勤明けのようで寝袋に潜って愚痴を言いながら寝てしまった。
 三人が、横になるスペースはないので、私が外で一夜を過ごすことにした。雪の上に断熱マットを敷き、ごみ用ビニール袋で寝袋を包みながら横になったら、体温の湿気で寝袋が濡れてしまい寒さが増す。ビニールを外し、ザックに下半身を入れながら朝を待つことにした。
現在、夜の9時。このまま、朝まで耐えられるのだろうか? 体温が5度下がったら、今日が私の命日になる。
 朝まで、モチベーションを保つにはどうするか不安と戦っていると一瞬、孫のクリスタルと以前約束をしたことを思い出す。「大きくなったら、ハワイのワイキキビーチで泳ぐ約束をしたことを」。ここで死んだら、レディになったクリスタルのビキニ姿が見られないと思った瞬間、周りの雪原がワイキキビーチの白い砂浜に見えてきた。ブナの原生林はヤシの木に見える。
生きる目的ができると、急に元気が沸き上がり冷え切った体を情熱が駆け回る。
 体が疲れ切っているので寝ないように、右の肘を立てて横になる。シビレるまでに20分左の肘を立てて20分、起き上がって体操をしながらジャックダニエル(私が好きなバーボン)を舌で転がして20分、このルーティンで一時間が経過する。
目的を持つ男には、夜の冬景色がワイキキビーチのように明るく感じるから不思議だ。
 辛抱強く6回繰り返した明け方の3時のころ、ツエルトの二人が動きだしたので、私は、すかさず雪をかぶって死んだふりをする。
新人は、私を揺らして「生きていますか?心配で寝られませんでした」と大きな声で叫ぶので「生きてる」と、立ち上がると喜んで抱きついてきたが何故か、孫のクリスタルとビックハグをしているような気がした。
二人は、高イビキで朝まで寝ていたが、「武士の情け」で言葉にはしなかった。
 人は、自分のためには頑張れないが、愛する人のためには頑張れるようだ。
高校一年生になったクリスタルと、「尾瀬のビバーク」の話をしながらワイキキビーチで泳ぎたくなってきた。

ハワイ

Kristal 彩花

Kristal 彩花

 

Copyright(c) 2011 KANESAWABENTENEN All Rights Reserved.